倉庫

ひたすら考えたことをひたすら書き殴ってひたすら終わる。

頭の中にやってくるぴかぴかしたものを書けないという話

どうあがいてもまともな文章が書けないことがしばしばあります。

今こうして文章を書きながら「まともな文章が書けないんです」なんて言い出すのも大概妙な話なんですが、あるんです。頭の中を文章のようなものの要素のような物質が縦横無尽に駆け巡った挙句霧消していくかのような感覚です。実際にこうして形になる文章が氷のような固形なのだとしたら、そういう文章の要素のような物質は砂糖や塩みたいに粒のような・・・それとももっと抽象的な存在のような・・・物質ですらないような・・・。そんななにかがはっきりとした固形にならずに飛び散ってしまうのです。

頭の中にじぶんで自由に作り上げた網を広げて、それらをむりやりに集めてしまうこともできます。でもだいたいの場合、これはちゃんとした長い文章としてまとまることはありません。かけらのようなものが、かけらのまま一句一句の単語のまとまりとして僕の前にあらわれてきます。まとまってなんかいないわけです。でも、たまにそのままでひとつの輝きをもった強いことばになっているものがぴかぴかと降りてくることもあります。そういうものをメモ帳に書き留めて、いつか形に出来ないかとああでもないこうでもない考えたりすることが時々あります。大体上手くいかないんですけど。

そういうぴかぴかしたものって、つまりは他の文とつながっているとまともな形になってはくれないんです。それぞれがとくべつな光だから、他のぴかぴかしたものとつながっている必要がないんだと思います。いつかそういうものたちをもとに素晴らしい文章が書けたりしたらきっと楽しいんでしょうけどね。

そういうわけで、頭の中にやってきたそういうものたちは未だメモ帳の中にいます。世に出るかはわかりませんが、僕はそれを見て彼らが降りてきたその時にどういう自分だったのかを思い出すのです。

なんでブログに書くかって、そりゃブログじゃないと読まない人(自分含む)がいるからよ

表題で言いたいことを全部言い切ってしまったんで、ここから先は全部与太話です。

今の世界にこれだけ文字ベースのSNSが蔓延ってる中で、なんでブログみたいな旧弊なメディアを選んで記事を書いてるか?そりゃもちろん、僕にとってみればブログみたいな完全に自分の世界だけで完結するメディアじゃないと書けないようなことを抱えてるからブログなんて書いてるわけですよ。

いわゆるSNSでは自分発の文章を書いているつもりでもフォロワーやまだ見ぬユーザーの顔(アバターだけど)がチラチラ見えてるわけです。書く文章も畢竟その人ら向けになる。要するに完全に孤独なわけじゃないんです。SNSに書く文は。

読者が明確に見えている文章と言い換えられるかもしれません。もっと卑屈に言うと誰かに気に入られようとしている文になりがちなわけです。そうするとすべての人に届けばいいとは思っていないまでも、「自分が想定した読者たちに可能な限り届ききってくれればいいな」などといった色気が文章の中に忍び入って来るわけです。これがよくない。文章が浅くなります。濁流のごとく流れるタイムラインの中において一際異なる煌めきを出そうとします。1つの投稿の中に全てが収まるように小回りを聞かせようとし始めます。これらのいずれもが「文を書く」という仕事そのものにしてみると全くの無駄なわけです。行きすぎると文を書くのではなく釣り針を書いてしまいますからね。

ここまでずっと「他人の目がある中で文を書くこと」について書いていきましたが、こういう事とは別に、自分の中に「これだ」と強く思うような事柄があるならば、一度でいいのでそれを長文にしてみる努力をしてみた方が面白いというのもあります。長文として形にまとめようとすると色々な事が起こります。殆どのケースにおいて瞬間的に文章を書くSNSでは自らが持っているイメージに腰を据えて向き合う時間を自覚的に取ることは殆どないといってもよいと思います。僕はそうでした。ブログだとそうは行きません。ある程度まとまった形で書こうとするならば、そこに待っているのは自らが持っているイメージと繰り返し対峙する未来です。たとえ閃きのようなものと共に降り立ったイメージですら、確かな形として世に表すためには「それが何者なのか」を識るためにじっくりと分解しなければなりません。書くための起点としてはいずれのメディアにおいても「伝われ」という一念だったとしても、その先にあるものは全く異なります。そしてこの「じっくりと分解する」ことそのもの・・・つまり熟慮こそがブログを書くということで筆者が得られる大きなメリットにもなりうるわけです。

もちろん、熟慮がひらめきより優れているだのといった比較論的な内容に落とし込むつもりはありません。得たひらめきを分析して行く過程でその鮮烈さを全く失ってしまってただのつまらない文に成り下がってしまうことも珍しくはないでしょう。降りてきたイメージがどうなってしまうかは実際に練り込んでみないと分からないのです。だからこそ面くもあるのですが。

ひらめきを得たときに、それをそのまま手帳かメモアプリに書き留めておくようにするのも良いかも知れませんね。それが降りてきた時の鮮烈なイメージが焼き付きます。

「お久しぶりです」とかそういうことを言わない精神

ブログでの話です。

ずっと考えていたんですが、久々に記事を更新するからといってわざわざ仰々しく「お久しぶりです」だとか「更新がしばらくありませんで」みたいな話を記事の中に入れる必要があるのでしょうか?僕はいらないんじゃないかしらんと常々思ってます。今日はそういう話をします。

あの「更新がありませんでした」っていう話は誰に向かって話しているんでしょうか?ひょっとして読者の方々に向かってじゃなくて過去のブログを頑張るぞと息巻いて記事を更新していた自分に向かって言っているのではないかしらん、と僕は考えているわけです。

だいたい更新が途絶えたことなんて過去記事の更新日時を見ちゃえばすぐにわかりますし。

更新が途絶えがちになっちゃう理由については昔「自分自身の場合は」ということで考えてみましたが、そういう理由で更新が途絶えてしまったとしても「しばらくご無沙汰だった」なんてことはもうみんな解ってるわけです。恥じる必要すらない。もっと堂々と「おれは書くのを忘れてたわけではないぞ」と構えていればよいのです。

だからみんな唐突にブログを再開してほしい。僕も唐突にブログを書いたり書かなかったりするから。記事をコンスタントに書けないことなんて気にも止めずに自由にやろうぜ。

っていう更新をサボってたことに対する言い訳でした。次の記事もいつか書くからみんな気長に待っててね。

デジタル一眼レフデビュー

とうとうしました。一眼レフカメラデビュー。

帰宅前に何の気なしに寄った家電量販店で出会った一眼レフが試し撮り出来たので試してみていたんですが・・・まーーー簡単に撮れるんだこれが。そしてあの「カシャ」と軽いながらもしっかりと手に伝わるシャッターの感触!機械モノが好きな自分には堪りません。なぜ今まで一眼レフをスルーし続けて来たのか。

そういうわけで、前回ボーナスが出たときにとうとう買ってしまいました。やっぱりというか当然ながらというか、想像していたよりもずっと簡単にキレイな写真が撮れる!素晴らしい話です。とりあえず桜のシーズン前にカメラを買えたので、カメラの機能を試すついでに桜の写真を撮って来たり、無駄に近所を練り歩いてカメラを構えてみたりしていました。

いいものです。カメラを構えて何かに向けるという単なる動きそのものが既にいい。横方向に広かったはずの世界がカメラの操作盤を通して見る事によって縦方向に深くなっていく感覚がいい。撮影時の設定によって出来上がる写真が全く異なるのもいい。モノクロで撮るかカラーで撮るかで写るものがガラッと変わるのもいい。とにかく撮ること自体も撮ったものをゆっくり眺めることも楽しい。絵心がどうしても身に付かなかった僕がこういう形で視界を加工できるようになるとは思ってもいませんでした。

うまい写真の撮り方とかはどうでもいい。ただ単に目に見えていたものを恣意的に加工できるという単純なことがたまらなく嬉しいし楽しいのです。

しかしこれ、いいカメラが手に入ると外に出歩きたくなるものだとはよく聞かされて来ましたが、自分も御多分に洩れずそうなってしまいそうです。いいカメラがあるんだから国内の色々なところの写真を撮ってみたい。春夏秋冬それぞれに見所がある観光地があるのだし、いつか休みを使って国内を回ってみたいところです。海外はいろいろ手間だからいいや。

すげえなあ一眼レフ。出不精だった人間を強引に変えてしまいそうだぞ。

いいセリフが入らないといけない症候群

どうにも「いいことを言っておかないとまとまった気がしない」と感じる物事が多いです。本当はそんなものはさして必要が無いとは思っているんですが、1つのツイート・1つのブログ・1つの詩・1つの散文に至るまで、何か1つの形としてまとめる時についキメになるものが欲しくなってしまうんですね。

これは新年一発目の記事の内容とちょっと関連してますが、週に1回~3回ぐらいは記事を書きたいのにブログの記事を投稿する頻度が低くなりがちな理由って何があるんだろう?と今年自分の現状を振り返った時、たどり着いた答えの1つが今回の話のテーマです。つまり心の中で「『何かキメになる言葉が入っていないと記事として成立しない』と無意識に考えているから」と考えてしまっていたからなんです。

話のオチとして「良い表現」を求めてしまうんですよね。テーマと全体的な構成をガッチリ決めて書く文ではそういうキメ台詞をあまり必要としないんですが、着地点を特に決めずに書き始めた文に関してはもうひどいとまで言って良いぐらいに悩みます。オチがないと生きていけないぐらいの勢いで文章を書いてはこねくり回し、コピペして位置を入れ替え、接続詞や間投詞に至るまで気を使い、漢字をひらがなに変え、「やっぱり読みにくいから」と元に戻し。700字ぐらいで良い感じにまとまっていた文を1000字近くまで引き延ばして結果的に若干冗長になったりといったことは当たり前のように頻発します。

文中に某かの結論が出ていないと落ち着かないのかも知れません。だらだらと文を書いてゆるっとまとめる方法でも大丈夫な文を書き慣れていないということでもあると思います。特に専門的な事を書いてないブログの1記事なんてそんなガッチガチじゃなくたっていいんですよねえ。むしろ変に堅っ苦しくないほうが雑記の集団としてカッコいいかもなんて思ってみたりすらしてます。今年一年を使ってこの「いいセリフ症候群」を治していかなければなりませんね。


というわけで新たな目標ができました。もしかしたらこの「いいセリフ症候群」ってtwitterの影響だったりするのかしら。

新年です。

明けました。今年もよろしくお願いします。

よくこういう新年を迎えたブログで語られがちな「近い将来(若干遠い将来)についての話題」ですが、実のところ僕は「目標を立てる」とか「それに向かって努力する」ということについてあまり積極的ではありません。流れに身を任せるような、自分が選ばなかったことによって起こる出来事を受け入れることに抵抗が無いような、そんな心持ちで日々起こるあらゆる事を受け入れつつ生きています。

だからといって全く目標をを立てないわけでもないんです。ここで面倒なことになっている。「目標を立てるけれども目標を守るわけではない」のですねつまり。立てる意味ねーじゃん!

そう、目標を立てる意味が無いんです。守る気が無いんですもの。でも毎年目標をなんとなく立てずにはいられないわけです。なのに自分の正確をよく解ってるもんだから「まあどこまで守れるかは知らんけどね」なんてひとりニヒリズムごっこをやりながら某かのノートに書いたりメモアプリに書いたりしたものを「なにやってんだこいつ」ぐらいに眺めながら年始休みを終えて日常に溶け込んでいくわけです。

なぜそんな守られるかも分からないようなものをご丁寧に立てているのか?実はこの「目標を立てる」こと自体に意味があって、ある程度形になるようなものを立てるとなると自身の現状や未来に対して期待している事柄がしっかり見通せていないとまともなものが出来上がらないんですよね。つまり「目標を立てる」という行為を通じて自身の整理を行なっているんです。だから僕にとっては、目標を立てることが出来た時点で既に目標が達成できているのかも知れません。自身の整理に主眼が置かれているわけですからね。


さて、そんな僕の今年の目標は「年内に70記事達成」です。少なくとも週に1回は記事を書きたいですね本当。

ラストオブ駄文イン2017

節目が近づいてますね。今年もあっという間でした。多分今年は3カ月ぐらいで終わっちゃったんじゃないでしょうか。

年々時間が経つ速度が早くなってきて「そのうち1年が2ミリ秒ぐらいで過ぎちゃうんじゃないのこれ」と物理法則に対する仄かな疑義を抱きながら過ごす日々です。そんなんなったらバターになっちまうぞ人類。

しかしこの「加齢と共に時間が短くなる感覚」って世界共通らしいですが、一体なぜこういう感覚が沸き起こるんでしょうね?若い頃に比べて体力が落ちたりして生活の速度が低減するようなことがあるにしても、ちょっと遅くなる速度が速すぎる気がします。遅かったり速かったり忙しいなおい。

こんな現象が起こるのも、思うに子供に比べて環境の変化が少ない代わりに細かい目標が無数にあるからからでしょうか?無いわけではないかも。社会に出ればこまごまとした締め切りに追われ続ける代わりに大勢は早々変化しない生活を送ることが多くなりがちで、そういう締め切りたちが古代ローマファランクスよろしく隊列を組んで「あいつを再起不能にしてやれ」ぐらいの勢いで突っ込んでくるのを撃ったり斬ったりしてる最中に1年が終わってしまうし。

子供の頃はそれはもう伸びやかだったもんです。締め切りたちも数が圧倒的に少ないし、そいつらを倒すのも簡単だし、奴らの文明もまだ発達してないからバラバラに攻めてくるだけだし。たまに徒党を組んできますけど。夏休みとか。


もしかしたら人間が社会性を得ると同時に締め切りたちの知能も発達していく可能性が・・・!?



アホな事を言っててもしょうがないですね。



話をちょっと真面目な方向に戻すと、さっきから言っているような「細かいけど侮れない締め切りに追われ続ける」ことによって、日付の概念が単なる数字以外の意味を持ち始めるところから時間感覚の変質が始まるんではないかしらんとハッと気付いたりしました。昔体育教師に「マラソンを完走するコツは細かい目標を大量に立てる事だ」なんて教わりました。曰く「あそこまで行けたら大丈夫を繰り返していればいつかゴールに着く」そうですが、今回の例なんかまさにそれですよね。

とまあ年の瀬の今になってこんなような事をふと考えてみたりしているわけです。まあこんなしょうもない事年の瀬の暇な時期にしか考えないだろうからね。
でもいいんです。年の瀬なんてのは1年の振り返りと称してろくでもない事を考えたりやってみたりして結局無為だったぐらいが丁度いい。

そんなわけで来年も締め切り軍を追い返したりしょうもない事を堂々と書いたりして過ごそうと考えてます。今年中に読んだ本*1の振り返りもやりたいなあ。

*1:漫画中心だけど