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ひたすら考えたことをひたすら書き殴ってひたすら終わる。

書く方が好きか、読む方が好きか?という話と雑記のような散文が好きという話

 今回は「書く方が好きか、読む方が好きか?」と「雑記のような散文が好き」という話です。

 まず最初のテーマから。答えから先に言ってしまいますが、僕は圧倒的に読む方が好きです。小説・エッセイに留まらず漫画なんかも大量に読みます。……などと書くと随分な多読家に聞こえるかもしれませんが、実は読む本の8割が漫画だったりはします。でもいいでしょう、他ジャンルの著作も読んではいますから。
 作品として発表される前提で構成された文には特有の美しさがあります。内容の巧拙こそありますが、そこには作者自身が抱えてきた大量の「コード」とそれを昇華させようとした作者の手が垣間見えます。そういうものを読み取りながら、もちろんレトリックそのものも楽しみながら作品に触れていっているわけです。

 そういうわけで僕は日々常に何らかの著されたものを読んでいるわけですが、とりわけ好きなジャンルの文章があります。冒頭でも列挙した「雑記のような散文」です。要するに商売になっていない文章ですね。
 かっちりとまとまっていないけれど筆者の瑞々しい感性が露わになっている文。あるいはただの暮らしの記録。どんな長さのものでも構いません。ブログでもツイートでもいい。とにかく文として象られ、誰が見るかなどということに気を使っていないかのような身軽さで世の中に産み落とされ、時には注目を集め、やがて散逸していく文。そういう着飾っていない(かのように振舞っている)文がなんとも愛おしいのです。日々の暮らしがただ淡々と語られるのみのブログなどは最高のご馳走と言えるでしょう。

 なぜそこまで愛おしいのか?思うに筆者の生活そのものを透かす事が出来るからかもしれません。こう書くと悪趣味に聞こえるところがありますが、前述のように作品として発表されたものを通じて作家性なるものを模索する行為も、本質を辿れば作者の生活や思想を垣間みようとする試みなわけですから、そういう視点から見れば僕はあらゆる文を公平に解釈しようとしているとも言えます。
 閑話休題。いわゆる雑記には着飾らないが故の煌めきがあります。レトリックとしては美しくなくとも、そこには身軽さが生み出したしなやかさがあります。力強い説得力があります。*1「活きた文章」と言い換えることができるかもしれません。そういう文はテクストの中で人工的に生まれた文とは一線を画すおもしろさがあります。僕はそういった文がたまらなく読みたい。

 ただ、そういった文は得てして筆者の余暇に描かれることが多い・・・つまり文章が出現しない時間帯があり得るのです。それは頻繁に起こります。仕事や家事の時間にすら何かを書いているほどの人はそうそういませんから。*2そして文章不足は時に数日に及ぶことがあります。そうなった時にどうすればいいのか?文を捕まえる観測範囲を広げるか?それとも日記文学の類にも本格的に手を伸ばすか?僕は自問自答の末一つの答えを得ました。文がなければ自分で文を書けばいいじゃない!*3

 そういうわけで公開するかは別として自分でも文を書こうと思い至ったわけです。書きたいから書く時代から読みたいから書く時代へ。甘美な響き・・・なのかな?以前日記のネタがないと嘆きましたが、とうとう書くものを見つけてしまったことにもなります。やったぜ。



 ちなみに冒頭で漫画を読んでいることを書きましたが、それに関連してtwitterの方に1年のまとめとしてその年に読んだ漫画の中で印象に残った作品をまとめたりしていました。こちらにもいつかそういうものを書くかもしれませんね。

*1:結局のところあらゆるレトリックも生の体験そのものには絶対に敵わないと僕は考えています

*2:こう書くと一部の人たちから反発を買うことがありますが、よく考えてください。そんなに取り憑かれてる人は少数派です

*3:創作の基本です

生活の記録って書き忘れたりしません?

 僕は今までの人生の中で生活の記録を録るということをほとんどして来ませんでした。

 実を言うと日記帳というスタイルのノートは非常に好きなんです。1日1記事ぐらいは何かを書き込めるあの機能美溢れるデザインといい、個性を演出するために各々の日記帳メーカーが独自の工夫を凝らして用意しているちょっとした工夫の数々といいたまらんわけです。

 そんなわけで年に1回日記を買ってくるわけですが、結局のところその「お気に入りの日記帳」は白紙のまま12月を迎えて、また新しい年の日記を買ったりしてしまう。360回以上何かを書くチャンスが与えられているから絶対に2割ぐらいはなんか書けるだろうと思ってるわけです。買った時には。けどどうでしょう、年の終わり頃に手帳を見返すとまあ白いこと。そんな生活を10年ぐらい続けて来てとうとう気づかない方が幸せだった疑問に気づいてしまうわけです。なぜ記録を取らないのかと。

 日常生活が周期的すぎるから?「きょうは なにもない へいわないちにちでした」と日記に書くのを恐れているのか?おそらくそれも一因です。思うになにかドラマティックな事が起こらない限り日記を書いてはいけないのだと考えている節が少なからずあるのです。後から読み返した自分がエンターテインメントとして楽しめる(たとえ苦悩の痕跡があったとしても)ものを書いておかなければならないという根性がどこかにあるのです。

 あるいは何かが起こっても書くのを忘れてしまうから?これはかなりあります。昔っから忘れっぽいんです僕は。それが良い方に働く事も悪い方に働く事もある……んですが、残念ながらイヤな思い出はかなりの間忘れないんですこれが。かなしいなあ。

 でも本当は周期的な日常の中にもあるはずなんです。予想していた決まり切った出来事から少しだけ離れた何かが。そういうものを忘れないようにするための取り組みをすれば、僕の日記帳は多分3分の1ぐらいは埋まるのかも。何かが起こる度にスマホにメモを取ればいいのか、あるいは何かを買ったりした時に自動的に記録されるようなものを探してきたり書いたりすれば良いのか(ネットで買い物をすると購入履歴として記録に残りますけど)。模索は尽きません。

もうそろそろ溜め込んでおいたものを出すときが来たでしょう

 さて4年ぶりに記事を更新しました。4年という歳月の中で何をしてきたかというと特に何もしてきていません。新しい事といえば自分が日頃独り言を垂れ流しながら遊んでいたゲームを配信媒体に乗せるようにしたことぐらいでしょうか。それすらも自分にとってはどうでもいいことです。もともと垂れ流していた独り言を、誰にも聞かれることもなく霧散してしまう言葉たちをせめて何らかの意味を持たせて散らしてやりたかっただけなのですから。

 とはいえ、これでも記事に出来そうな発想や事件には大分遭遇してきました。なんとなくいい事が思い付かない限り記事を書かなければならないなどと思い、ひとしきり案がまとまるまでメモに取り続けて来ては記事にまとまりきらなかったとして貯蔵庫に留まってしまった記事は大分増えていました。ですがとうとう気付いてしまったわけです。「これは適当なところで外に出さないと一生溜まったままだぞ」と。「良い感じにまとまらないとダメだと思っていたけど、そんなに頭をひねり回したところで改善しない内容も多いぞ」と。書いて発表すらしていない人間に一体どのような名文が書けるでしょうか。

 ……というわけで、今まで溜め込んでいたものの中でとりあえず2本まとめ上げてみました。もう少し長い文が書けたかも知れません。もっと気の利いた表現が出来たかも。でも今のところは自分が書いた文章を素直に受け入れましょう。そういう上手い文章はもっと書けるようになった自分が再度文章にしようと試みる事でしょう。扱ったテーマは普遍的で、再評価が可能で、何度書いてもよいだろうものですからね。

 

メモの取り方とtodoを忘れないように記録・通知する方法は根本的な部分で繋がっている気がしてきた

 仕事・プライベート問わずメモを取る機会が多くなってきています。長期的に覚えていればいい事柄から絶対に期日に覚えていなければいけない事柄まで、世の中には非常に多くの覚えていなければならない項目が増えてきています。それらを我々は無自覚かつ自覚的にメモやtodoとして書き残してきました。*1 しかし、そうしてメモに残したとしてもその「メモに取った」ということ自体を忘れてしまうことも数多くあります。果たして本当にこれでいいのでしょうか。勿論よくありません。ならどうするべきか?

 そもそもtodoはメモの一分類としてカテゴライズ出来るはずです。そういったメモとして書き残せる品物の全てを垂れ流すかのように付箋アプリやポストイットに残しておいたところで、時間が経過してしまうとメモが存在していること自体が当たり前になってしまって、メモを取ったという新鮮さはいつの間にか日常に溶け込んでしまうわけです。こうなってしまうと最早メモがメモ自身としての役割を完全に剥奪されてしまいます。つまり役立たずになってしまう。ならどうするべきか?

 急ぎではないけど近日中にやっておかなければいけないような内容はアラームで定期的に通知すればよい? これもよくありません。例えば忘れないように定期的にアラームが来るようにしても、メモを放置しすぎてしまうとアラームが来る事自体が常態化してしまいます。結局のところアラームも日常に溶け込んでしまいます。

 アプリの通知機能に変えたところでアラームはアラームなので、結論は同じです。すなわち一度登録したメモを長期間に於いて放置してしまう人間にとって、どうやって通知したところでそれは日常の中に溶け込んでしまう。ならばあまりに放置されすぎたら全く新しいメッセージが来るように出来れば話は違ってくるかもしれません。なにか常に新鮮な状態に保っておけばよいはずです。

 とにかく「習慣化させない(見慣れてしまわない)」ようにメモやtodoを管理出来ればベスト。ただ登録しただけではなくアフターケアを行う

 という事が重要なのではないでしょうか。アラームが何回来たかで優先度が勝手に上がる(メモの内容を確認せざるを得ないような仕組みになれば優先度が上がらなくても良い)ようなtodo管理システムがあればメモが忘れ去られる確率は下がるかもしれません。

 とにかく忘れる人は忘れてしまいます。メモを取ったことさえも。ならばそれを強制的に思い出させるようなアプリがあると面白いかもしれませんね。

*1:少なくとも私はそうでした

自分が嫌いなものを好きだという人の話を聞くのが楽しいという話

 唐突ですが、実は僕は自分が嫌いなモノを好きだと宣言する人の話を聞くのが非常に楽しいです。

 勿論意見を交換するとしたら基本的に話が合わないわけですが、僕にとって好きではないモノというのは基本的にアンテナを張っていないわけで、即ちその世界の情報を全く仕入れていないわけです。そういうモノが好きな人は僕が投資しなかった時間を割いて自らの嗜好として解釈・吸収しているわけで、勿論その人なりの物語が完成しているわけです。それを聞くのが非常に面白い。

 例えば、僕は納豆が好きではありません。粘性が高い食べ物が全般的に好きではないので必然的に納豆もダメなわけですが、一方で納豆が好きな人達はそれぞれに「自らがたどり着いた最適な食べ方」を知っているわけで、そういう各人なりのこだわりを聞いているといつの間にか自分も納豆に対してそれなりの愛着を抱いたりしている事がままあります。実際にその通り実行すると大して好きになれなかったりすることはままあるんですけどね。自分が嫌いだったモノなので。

 ただまあ「子どもだったから嫌いだったモノ」も数あるわけで、時間が経つことによって好みが変わっていた事に気付かなかったものも数多くあります。そういう事実に気付けるかも知れないと云う意味でも自分が嫌いなモノを好んでいる人達の話を聞いてみるのは有意義かも知れません。たとえ9割方自分の好みが正しかったとしても、1割でも否定されれば新たな可能性の扉が開くかも知れませんからね。

思い付いちゃったんならしょうがない

 思い付いちゃったんならしょうがないことが結構あります。

 どう考えても笑いにもならないようなしょうもないことを思い付いた、でも言いたい。思い付いちゃったんならしょうがないです。
 プライベートなんか家の中にきちんと置いてきましたよ、という顔をしながら街をさっそうと歩いているときに今日の夕飯を美味しく作るアイディアが思い付いちゃって真っ昼間からにやにや。思い付いちゃったんならしょうがないです。
 作業中に散々悩んで「とりあえず明日に回そうこれは」なんて半ば敗北したかのようにあきらめて帰路についた最中に電流走る・・・!思い付いてよかったです。

 ここ2年くらいでそんなことがらにでくわすタイミングが多くなりました。

 基本的に思い付いちゃったことを止めることは出来ません。思い付いちゃった以上は何らかの形で表面に出しておかなければ気が済まないのです。以前同じように思い付いたことに対して適当な扱いをしていたらその内容をすっかり忘れてしまって、後になって大層苦労した経験がこの考えに影響を及ぼしているのかも知れません。記録しておいたり誰かに言っておいたりしないと忘れちゃうんだよなあ。

 ここの記事にしてもそうです。基本的には「思い付いちゃったんならしょうがない」で記事を書き始めます。正確に言えば「思い付いたことを残す場所を公開してみた」という位置づけで記事を書き溜めています。書くところからしてそんな調子なので、公開する時にもあまりためらいはありません。ある程度書き殴ったらそのまま勢いに任せて公開します。ある程度気合いを入れてレトリックの訓練を兼ねつつ記事を書いてみようかなあなどとはたまに考えますが、あくまで考えるだけです。実践してない。

 きっと思い付いたままの勢いを大切にしたいと無意識に考えているのでしょう。ほんとうは気付いたものを気付いたまま即座に出力出来たらもっとカオスなものが出来上がって面白くなるのですが、自分の能力がそこまで達していないうちは文字に託してずばずばと書き殴っていくしかなさそうです。

読書がはかどらない

 最近読書がはかどりません。もともと読書自体は嫌いではなく、以前もこのへんで読書についての私見を記事にした事がある程度には読書は好きなのです。それが去年はまあはかどらなかったこと!

 なぜはかどらなかったのか。散々読書が好きだと言っておきながらあっさりとゲームに浮気したからなのか。出先で暇だったからとうっかりDLしたtviewが予想以上に使いやすかったせいで帰宅してからもtumblrに漬かってるからなのか。漫画だけは積むまいと思っていたのにとうとう漫画を積み始めるようになるまで本を買いまくっているからなのか。年末の空気に浮かれてつい買ってしまった裁断機を受け取るや否やテンションが有頂天になった挙句「紙の本として持ってなくてもいいんだけどなあ」と思ってた古書を片っ端から裁断して回ったからなのか。なんかすごく沢山思い当たるな。とにかくそんなような事柄が一致団結した上にさながら車懸りの陣が如く順繰りに攻撃を仕掛けてくるのです。何度も。こんな状態でははかどるはずがない。

 そんなこんなで結局去年読めた本は3冊でした。正確に言えば年の前半に4冊目に手を出して以来7ヶ月くらいかかってます。ここまで時間が掛かりすぎると最早冒頭部のあたりで筆者が何を言っていたのかすら遠い昔の出来事のようです。内容を思い出そうと試みると違う本のことを思い出しそうになります。最早1冊の本を通読するに耐えうる期限を大幅に超過していると言ってよいでしょう。そもそも1冊の本を通読するに当たって割り当てるべき最大の時間は精々2ヶ月です。そもそも小説の類なら1ヶ月もあれば世の殆どの本を読むことは難しくないでしょう*1。それを今の僕は7ヶ月もかかっている。しかもまだ読み終わっていない。さらに言えば半分しか読んでない。なぜか。誘惑に負けすぎたからです。

 ここまで時間が掛かってしまった以上、この本に対する取り組み方は「もう諦める」か「かいつまんで読む」かのどちらかしかありません。なんたって冒頭部を読んだ頃の自分とは既に7ヶ月もの距離で離れてしまったのですから。「再読する」という選択肢もあるといえばありますが、とりあえず今はそれを選ばないでおきます。今読んでる本は小説でないうえに同じ作者の他の著作と論旨が被る箇所がそこそこあるので、この本に執着しなければならない理由があまりありません。よくよく考えたらこれも大きな理由かも・・・。今月中にはとりあえず決着を付けて次に移りたいものです。

*1:例外はありますが。百年の孤独とか金閣寺とか百年の孤独とか