倉庫

ひたすら考えたことをひたすら書き殴ってひたすら終わる。

変わらないことの話

 僕の中には10年・15年経っても変わらない嗜好や精神的活動があります。

 例えば音楽を聴くこと全般。5歳の頃に父親から矢沢永吉を聞かされて以来*1、主に聴くジャンルこそ変わり続けましたが、音楽を聴くという本質的な活動そのものは変わらずにい続けてきました。こうやって変わらなかったからこそ作業の友としてBGMを聴き続けて最適な曲を探す旅に出たりするのでしょう。BGMについては先日ブログ記事として書いたので記憶に新しい方もいるかも知れません。

 誰にでもそういう「変わらないもの」があるのではないでしょうか。昔熱狂と共に持っていたそういうことを失わなずにいられている。しかも今も昔も同じような熱狂と共に居続けている。あるいは変わり続けながら新しいかたちの熱狂を沸き上がらせ続けている。もしかしたら暮らしぶりの変化と共に変えなければならなかった。そんなようなものたちです。

 イヤホンから流れるお気に入りの古い曲をお供にして街を歩いているとそういうことを強く感じずにはいられません。これは「変わらなかったこと」でもあり「変わってしまったこと」でもあります。音楽を様々なこころもちをもって聴いていた記憶は、その感情と正面から向き合った当人が生き続ける限りほぼ永続的に在り続けるものです。一時期熱狂を帯びて聴いていた曲や作業を補佐する目的で聴いていた曲はいつ聴き返しても当時の熱狂や苦境を呼び起こすし、流行に飲まれて買った曲を聴けばその時の時代を曲の奥側から感じ取らずにはいられません。

 そうやって記憶の底から水面まで浮かび上がってくるものは「変わらないこと」であるし、そうやってわざわざ思い出すことがらになってしまったものごとは今の自分からしてみれば「変わってしまったこと」です。

 特に変化を求めたわけでも停滞を求めたわけでもないような薄ぼんやりとした生き方の中にもこういう風な「変化」があった。今日の僕は住み慣れた街の駅前ではっと立ち止まってそんなことを考えていました。

 こうやってブログを書く事も「変わってしまったこと」になっちゃうんでしょうか?

*1:今にして思えば子どもに聴かせるには早すぎる。何考えてたんだあの父親は

ホッピー現象

 僕は日常的な暮らしにおいて、目的を達成するために行ったはずの場所で全く違うことをして帰ってくることが多々あります。例えば「ラーメンが食べたい!」と思い立ってラーメン屋に入ったのに気付いたらホッピー2杯と生姜焼きを頼んで満足して帰ってしまうようなやつです。こういうものを「ホッピー現象」と名付けたくなったので今回のブログの表題とさせていただききました。

 で、これ不思議なことに「どうしてこうなった」とは微塵も思わないんですよね。そんでもって退店語にはラーメンが食べたかった気持ちはすっかり収まって、またしばらくの間日常に問題無く戻れていけます。

 不思議な話です。僕は少なくともラーメンを食べたかったわけで、決して酒を飲みたかったわけではなかった。でもいつも通り空いてるいつもの席に着いたと思ったところで、気付いたら目の前にホッピーが現れてくるわけです。もちろんホッピーが沸いて出てくるわけではないので自分で流れるように頼んでいるから現れてくるわけですが。

 でそれを一口飲んでしまったら最後、もはやラーメンが食べたかったからわざわざ駅から逆方向の店にまで来た目的を忘れてホッピーをむさぼり、明らかにもやしが多い野菜炒めやら脂身が異様に目立つ生姜焼き定食やらを片付けて、なんの不満もない心持ちで会計を済ませて退店していくわけです。下手したらラーメンを食べたかったことすら忘れている日もある。

 どうしてでしょうね?最初に掲げていた目標が達成されるに越したことはないのは間違いないはずですからね。そのために家から遠い店まで足を運んだりといったしなくていい努力をしていることは少なからずありますし。それに脇に逸れてしまったせいで根本的な目標は達成できていないので、しばらく経った後で本来の目標を達成するために同じ場所に再度訪れたりすることもままあります。はっきり言って二度手間です。

 でも最近になって気付いたんですが、こういう無駄ってたのしいんですよね結構。敢えてする手間の喜びみたいなものは常にたのしいものです。むしろ無駄そのものが発生することを不確定要素として期待していることすらあります。そう、無駄は不確定要素を生み出すんです。合理的でない無駄な生活を歩む。流れるままに生きる。だから何が起こるかわからない。それがたのしい。


 そんなこんなで今日も流れるままに生きています。いちばんおもしろいものは予想も出来ないことですよね。

BGMについての話

 今回は「BGMって結構引きずられるよね」という話と、それに関連して「普段どんな曲/音を聴きながら作業してる?」という話です。

 僕が仕事をしている職場では比較的基準が緩く、作業中にイヤホンをつけてBGMを聞くことが許されています。もともと音楽を聴くのが好きな自分としてはこの状況はとてもありがたく、毎日必ずなんらかの曲だのなんだのを聴きながら作業しているわけですが……長年そういう状況に居続けて様々な音楽を聴いていると否応無く気づいてしまうわけです。「なんでも聴けるからってなに聴いていいわけじゃあないわな」と。

 そもそもBGMと聞いてどのような曲を連想するでしょうか?スーパーマーケットやデパートで流れるような穏やかで落ち着いた曲でしょうか?それともハードロックやメタルのような激しい曲?ドラマ・アニメや映画で流れるサウンドトラックもBGMですね。このように「BGM」として括って考えようとすると実にたくさんのジャンルの曲が候補に挙がってくるのに驚かされます。

 当然かとは思いますが、やはりそれぞれにBGMとして向いているシーンがあると思います。落ち着きたい時に何かを掻き立てられるような激しい曲を聴きたくはないでしょうし、その逆も然りでしょうし。僕は仕事柄デスクで熟考することが多いので、思考の妨げにならない曲を選ぶ方向に落ち着いちゃったんですよね・・・。ものを考えるにあたって、日本語の歌詞が入っている曲はどうしても向きませんでした。歌詞が耳に入ってきて思考を妨げてしまうからです。脇で話をされると考え事が捗らない人は数多いかと思いますが、僕も御多分に洩れずそのタイプだったようです。
 そうなると必然的に洋楽かインストの曲がメインになっていくわけで、そんな中最終的に候補として生き残ったのが上述のジャズ*1とサントラでした。暗すぎる曲はテンションも落ちて作業に向かないので、少なくともフラットになるかアガる曲がいいわけです。そういう意味でも上述の2ジャンルは特にいい。過度に落ちていかない。

 そんなわけで上述したようなジャンルの曲を一通り聞いた結果、僕は主に作業用としてジャズやサウンドトラックを聴くようになりました。最近はずっとドラマのサントラ*2かジャズを聴きながら作業してます。おかげで作業が程よく捗・・・ってればいいなあ。



 そういえば環境音を延々と聴けるWebサイトなんかもあるみたいですよ。これも作業のお供としていいかもしれませんね。

*1:特にモードかハードバップ

*2:特に科捜研の女

twitterをブログのネタ帳がわりに使えるのか?という話

 今回はtwitterをブログのネタ帳がわりに使えるのか?という話です。ちなみにこの話は下書きとして4年眠っていたものを掘り返そうとしています。長らくブログ更新をせずにいるとこういう遺産がそこかしこから「お、今度こそ出番か」と顔を出してくるわけですね。こいつがとりあえず記事を書こうと下書きページを開くと目を爛々と輝かせて此方を凝視してくるわけです。「ここにいるぞ」と。
 ここ数回は上手いことスルーして記事を書いていましたが、今回とうとう観念してこいつを再編集のうえ公開してみようと思います。せっかくなので、当時書いていた内容を自己批評してみますね。

 さて。普段日々の生活の中で掻き消えてしまってもいいような事柄を叩きつけて流れるに任せているtwitterですが、様々な制約があるのは周知の事実でしょう。この制約を利用して上手いこと思考を要約してメモっておくことは出来ないだろうか、と今回考えたわけです。というのも普段ブログのアイディアをまとめている時に書き留めている文は断片的なものが多く、字数を数えると140字に満たないものがかなりある事が解ったのです。これひょっとしてそのままtwitterに漂流させられるんじゃないか?
もしかしたら、twitterに公開することでブログとして昇華するための推進力を他の人からもらえたりするんじゃないか?これはひょっとしたらいい考えかもしれませんね。近いうちにハッシュタグか何か付けて実験してみてもいいかもしれません。

 ・・・はい、ここまでが過去の自分が書いていた下書きです。ここから4年経って僕は何を知り得たのか。極めて簡単な話でした。
 まずひとつ。「簡略化したテクストから本来考えていた内容を引き出すことはできない」。
 当時の僕は文を書くにあたって持っていた自身の思考のフレームワークは可逆的であると考えていたようです。つまり要約された140字以内の文章から本来想定していたものを再生可能であると考えていた節が伺えます。しかしながら、僕の考えは悉く外れていました。なぜか?

 これはあくまで僕の中での話ですが、たとえ140字内に収まるネタであったとしても、それが「ツイート」ボタンを押すという行為を挟むことによってひとつのまとまった形を形成してしまっていたことが分かったのです。文を書く中で「衆目に晒される」ことを無意識のうちにでも自覚した瞬間に、140字未満のそれすらひとつのブログの記事と同等に解釈してしまったのかもしれません。つまり記事としてまとまるようにネタそのものを編集してしまっていたのです。*1 これによって、時間が出来てからいざツイートをもとに記事を構成しようとしても、元の140字をそれほど越えないものばかりが出来上がってしまいました。そしてこの事はつづく二つめの理由も誘発します。
 「全てのブログが再編集になってしまう」。これが二つめの理由でした。よく考えれば当たり前の話です。140字で収まるように書いてしまったものは既にひとつの140字縛りブログとしてまとまってしまった文章なわけで、これを拡張しようとすればそれは全て再編集の産物になってしまうことになります。4年前〜つい最近までの僕は再編集に対して否定的でした。故にツイートをもとに記事を書くことを選ばなかったのです。

 かくしてツイッターにネタを書く戦略は失敗に終わりました。同時に「twitterマイクロブログサービスなのであってSNSではない」*2 という米twitter社のCEOの発言を(個人的に)裏付けることになっていたわけです。

 最近ではブログに書こうと思っていた事柄は全てgoogle keepだとかonenoteだとかに書いています。「まとまらない」って想像以上に大切なことなんですね。

*1:連続ツイートも例に漏れません。要旨の切り取りを避けるために文章を編集する必要があるのですから

*2:https://www.fastcompany.com/3063296/jack-dorsey-on-the-new-twitter-were-not-a-social-network-as-people-th

書く方が好きか、読む方が好きか?という話と雑記のような散文が好きという話

 今回は「書く方が好きか、読む方が好きか?」と「雑記のような散文が好き」という話です。

 まず最初のテーマから。答えから先に言ってしまいますが、僕は圧倒的に読む方が好きです。小説・エッセイに留まらず漫画なんかも大量に読みます。……などと書くと随分な多読家に聞こえるかもしれませんが、実は読む本の8割が漫画だったりはします。でもいいでしょう、他ジャンルの著作も読んではいますから。
 作品として発表される前提で構成された文には特有の美しさがあります。内容の巧拙こそありますが、そこには作者自身が抱えてきた大量の「コード」とそれを昇華させようとした作者の手が垣間見えます。そういうものを読み取りながら、もちろんレトリックそのものも楽しみながら作品に触れていっているわけです。

 そういうわけで僕は日々常に何らかの著されたものを読んでいるわけですが、とりわけ好きなジャンルの文章があります。冒頭でも列挙した「雑記のような散文」です。要するに商売になっていない文章ですね。
 かっちりとまとまっていないけれど筆者の瑞々しい感性が露わになっている文。あるいはただの暮らしの記録。どんな長さのものでも構いません。ブログでもツイートでもいい。とにかく文として象られ、誰が見るかなどということに気を使っていないかのような身軽さで世の中に産み落とされ、時には注目を集め、やがて散逸していく文。そういう着飾っていない(かのように振舞っている)文がなんとも愛おしいのです。日々の暮らしがただ淡々と語られるのみのブログなどは最高のご馳走と言えるでしょう。

 なぜそこまで愛おしいのか?思うに筆者の生活そのものを透かす事が出来るからかもしれません。こう書くと悪趣味に聞こえるところがありますが、前述のように作品として発表されたものを通じて作家性なるものを模索する行為も、本質を辿れば作者の生活や思想を垣間みようとする試みなわけですから、そういう視点から見れば僕はあらゆる文を公平に解釈しようとしているとも言えます。
 閑話休題。いわゆる雑記には着飾らないが故の煌めきがあります。レトリックとしては美しくなくとも、そこには身軽さが生み出したしなやかさがあります。力強い説得力があります。*1「活きた文章」と言い換えることができるかもしれません。そういう文はテクストの中で人工的に生まれた文とは一線を画すおもしろさがあります。僕はそういった文がたまらなく読みたい。

 ただ、そういった文は得てして筆者の余暇に描かれることが多い・・・つまり文章が出現しない時間帯があり得るのです。それは頻繁に起こります。仕事や家事の時間にすら何かを書いているほどの人はそうそういませんから。*2そして文章不足は時に数日に及ぶことがあります。そうなった時にどうすればいいのか?文を捕まえる観測範囲を広げるか?それとも日記文学の類にも本格的に手を伸ばすか?僕は自問自答の末一つの答えを得ました。文がなければ自分で文を書けばいいじゃない!*3

 そういうわけで公開するかは別として自分でも文を書こうと思い至ったわけです。書きたいから書く時代から読みたいから書く時代へ。甘美な響き・・・なのかな?以前日記のネタがないと嘆きましたが、とうとう書くものを見つけてしまったことにもなります。やったぜ。



 ちなみに冒頭で漫画を読んでいることを書きましたが、それに関連してtwitterの方に1年のまとめとしてその年に読んだ漫画の中で印象に残った作品をまとめたりしていました。こちらにもいつかそういうものを書くかもしれませんね。

*1:結局のところあらゆるレトリックも生の体験そのものには絶対に敵わないと僕は考えています

*2:こう書くと一部の人たちから反発を買うことがありますが、よく考えてください。そんなに取り憑かれてる人は少数派です

*3:創作の基本です

生活の記録って書き忘れたりしません?

 僕は今までの人生の中で生活の記録を録るということをほとんどして来ませんでした。

 実を言うと日記帳というスタイルのノートは非常に好きなんです。1日1記事ぐらいは何かを書き込めるあの機能美溢れるデザインといい、個性を演出するために各々の日記帳メーカーが独自の工夫を凝らして用意しているちょっとした工夫の数々といいたまらんわけです。

 そんなわけで年に1回日記を買ってくるわけですが、結局のところその「お気に入りの日記帳」は白紙のまま12月を迎えて、また新しい年の日記を買ったりしてしまう。360回以上何かを書くチャンスが与えられているから絶対に2割ぐらいはなんか書けるだろうと思ってるわけです。買った時には。けどどうでしょう、年の終わり頃に手帳を見返すとまあ白いこと。そんな生活を10年ぐらい続けて来てとうとう気づかない方が幸せだった疑問に気づいてしまうわけです。なぜ記録を取らないのかと。

 日常生活が周期的すぎるから?「きょうは なにもない へいわないちにちでした」と日記に書くのを恐れているのか?おそらくそれも一因です。思うになにかドラマティックな事が起こらない限り日記を書いてはいけないのだと考えている節が少なからずあるのです。後から読み返した自分がエンターテインメントとして楽しめる(たとえ苦悩の痕跡があったとしても)ものを書いておかなければならないという根性がどこかにあるのです。

 あるいは何かが起こっても書くのを忘れてしまうから?これはかなりあります。昔っから忘れっぽいんです僕は。それが良い方に働く事も悪い方に働く事もある……んですが、残念ながらイヤな思い出はかなりの間忘れないんですこれが。かなしいなあ。

 でも本当は周期的な日常の中にもあるはずなんです。予想していた決まり切った出来事から少しだけ離れた何かが。そういうものを忘れないようにするための取り組みをすれば、僕の日記帳は多分3分の1ぐらいは埋まるのかも。何かが起こる度にスマホにメモを取ればいいのか、あるいは何かを買ったりした時に自動的に記録されるようなものを探してきたり書いたりすれば良いのか(ネットで買い物をすると購入履歴として記録に残りますけど)。模索は尽きません。

もうそろそろ溜め込んでおいたものを出すときが来たでしょう

 さて4年ぶりに記事を更新しました。4年という歳月の中で何をしてきたかというと特に何もしてきていません。新しい事といえば自分が日頃独り言を垂れ流しながら遊んでいたゲームを配信媒体に乗せるようにしたことぐらいでしょうか。それすらも自分にとってはどうでもいいことです。もともと垂れ流していた独り言を、誰にも聞かれることもなく霧散してしまう言葉たちをせめて何らかの意味を持たせて散らしてやりたかっただけなのですから。

 とはいえ、これでも記事に出来そうな発想や事件には大分遭遇してきました。なんとなくいい事が思い付かない限り記事を書かなければならないなどと思い、ひとしきり案がまとまるまでメモに取り続けて来ては記事にまとまりきらなかったとして貯蔵庫に留まってしまった記事は大分増えていました。ですがとうとう気付いてしまったわけです。「これは適当なところで外に出さないと一生溜まったままだぞ」と。「良い感じにまとまらないとダメだと思っていたけど、そんなに頭をひねり回したところで改善しない内容も多いぞ」と。書いて発表すらしていない人間に一体どのような名文が書けるでしょうか。

 ……というわけで、今まで溜め込んでいたものの中でとりあえず2本まとめ上げてみました。もう少し長い文が書けたかも知れません。もっと気の利いた表現が出来たかも。でも今のところは自分が書いた文章を素直に受け入れましょう。そういう上手い文章はもっと書けるようになった自分が再度文章にしようと試みる事でしょう。扱ったテーマは普遍的で、再評価が可能で、何度書いてもよいだろうものですからね。