倉庫

ひたすら考えたことをひたすら書き殴ってひたすら終わる。

なんでブログに書くかって、そりゃブログじゃないと読まない人(自分含む)がいるからよ

表題で言いたいことを全部言い切ってしまったんで、ここから先は全部与太話です。

今の世界にこれだけ文字ベースのSNSが蔓延ってる中で、なんでブログみたいな旧弊なメディアを選んで記事を書いてるか?そりゃもちろん、僕にとってみればブログみたいな完全に自分の世界だけで完結するメディアじゃないと書けないようなことを抱えてるからブログなんて書いてるわけですよ。

いわゆるSNSでは自分発の文章を書いているつもりでもフォロワーやまだ見ぬユーザーの顔(アバターだけど)がチラチラ見えてるわけです。書く文章も畢竟その人ら向けになる。要するに完全に孤独なわけじゃないんです。SNSに書く文は。

読者が明確に見えている文章と言い換えられるかもしれません。もっと卑屈に言うと誰かに気に入られようとしている文になりがちなわけです。そうするとすべての人に届けばいいとは思っていないまでも、「自分が想定した読者たちに可能な限り届ききってくれればいいな」などといった色気が文章の中に忍び入って来るわけです。これがよくない。文章が浅くなります。濁流のごとく流れるタイムラインの中において一際異なる煌めきを出そうとします。1つの投稿の中に全てが収まるように小回りを聞かせようとし始めます。これらのいずれもが「文を書く」という仕事そのものにしてみると全くの無駄なわけです。行きすぎると文を書くのではなく釣り針を書いてしまいますからね。

ここまでずっと「他人の目がある中で文を書くこと」について書いていきましたが、こういう事とは別に、自分の中に「これだ」と強く思うような事柄があるならば、一度でいいのでそれを長文にしてみる努力をしてみた方が面白いというのもあります。長文として形にまとめようとすると色々な事が起こります。殆どのケースにおいて瞬間的に文章を書くSNSでは自らが持っているイメージに腰を据えて向き合う時間を自覚的に取ることは殆どないといってもよいと思います。僕はそうでした。ブログだとそうは行きません。ある程度まとまった形で書こうとするならば、そこに待っているのは自らが持っているイメージと繰り返し対峙する未来です。たとえ閃きのようなものと共に降り立ったイメージですら、確かな形として世に表すためには「それが何者なのか」を識るためにじっくりと分解しなければなりません。書くための起点としてはいずれのメディアにおいても「伝われ」という一念だったとしても、その先にあるものは全く異なります。そしてこの「じっくりと分解する」ことそのもの・・・つまり熟慮こそがブログを書くということで筆者が得られる大きなメリットにもなりうるわけです。

もちろん、熟慮がひらめきより優れているだのといった比較論的な内容に落とし込むつもりはありません。得たひらめきを分析して行く過程でその鮮烈さを全く失ってしまってただのつまらない文に成り下がってしまうことも珍しくはないでしょう。降りてきたイメージがどうなってしまうかは実際に練り込んでみないと分からないのです。だからこそ面くもあるのですが。

ひらめきを得たときに、それをそのまま手帳かメモアプリに書き留めておくようにするのも良いかも知れませんね。それが降りてきた時の鮮烈なイメージが焼き付きます。