倉庫

ひたすら考えたことをひたすら書き殴ってひたすら終わる。

読書以外から物語を摂取している人は読書もスムーズに出来ると痛感した話

最近、主婦をやっている友人と2人で時折近代日本文学(主に宮沢賢治)に関する読書会のようなものを定期的に開いています。読書会、と聞くとものすごくかっちりした会のようなイメージを与えてしまうかもしれませんが、要するに毎週(ないし隔週・あるいは毎月)読む作品を決めておいて、その作品についてお互いの意見を交換しあうだけの実にこぢんまりとした会です。

きっかけはほんのちょっとしたことでした。相手からダイレクトメッセージで「最近本を読んでいるけれどよくわからないことが多いので教えてもらえないか」というメッセージを頂いたんです。僕自身もとより読書をする人間でしたし、なにより読書仲間が増える可能性があるのは喜ばしいので、即決で申し出を引き分けたのでした。

彼女が最初に読んでいたのは芥川龍之介でした。いわゆる王朝ものの作品を読んでいたそうなんですが、作品の中に登場する用語や言い回しの多くを理解できなかったために僕を頼ったのだそうです。確かに読書慣れしてない人がいきなり王朝ものに取りかかるのは少々厳しいですよね・・・そういうわけで、彼女の読書遍歴をほぼ決定付けるような読書会(という名の読み合わせの会)を開くことになりました。

読書会を開いてまず驚いたことは、彼女の感受性の高さです。 学校の国語の授業で強制的に読まされた以外の読書体験は皆無だと言っていた彼女は、実に鮮やかに物語を解釈し、彼女なりに再構成して飲み込んでいきました。時にそれは二次創作と言える程度まで再構成され、彼女はそれを二次創作だと理解しながら原本のテクストを飲み込みつつ解釈していきます。すばらしい才能でした。僕は彼女の才覚を純粋に認め、どこからそれを得たのか伺ってみました。彼女の答えは単純なものでした。

「昔から私には妄想癖があった」

妄想癖!物語を解釈するのに最も重要な要素です。重ねて言えば妄想とテクスト分析を正確に分離できればパーフェクトですが、「妄想」は「分析」よりも得難い能力です。最初、彼女はそれを解釈にとって邪魔なものだと考えていました・・・とんでもない!僕の主観ですが、物語を分析できる人よりも物語を妄想で拡張出来る人の方が遙かに少ないはずです。彼女は読書を本格的に始める前から既にその能力を持っていたのです。なんとうらやましいことでしょう。

妄想とは可能性を認めることです。たとえそれが目の前にある物語をほぼ全て否定しながら構成されるようなものですら、それを抱いた人が物語の中でごくわずかにでも「ありえた」話を(自らの主観が大いに含まれながらも)すくい上げられる人間だったからこそ得られたものなわけです。そして、その「話を掬い上げる」行為そのものこそがつまり「解釈」であるのです。これも僕の主観ですが、世の「読者」・・・つまり物語を受け取る方の人間のほとんどは物語をその通り「読む」ー解釈することは出来ても、それを再構成すべく「妄想する」ことは殆ど出来ないのではないでしょうか? そして、そうした力を十分に持ち合わせていながらも教育の現場の中で繰り返し吹き込まれる「客観的な解釈に優位性がある」という呪言によって自らの素晴らしい能力を封じ込めてしまっていた人たちもまた無視出来ないぐらいの数はいるのではないでしょうか? 僕は妄想を自在に操る彼女を見ていてそう思わざるを得ませんでした。

もちろん妄想を核とした創造性を伸ばすようなスタイルで全ての子供を指導するわけにもいかないのでしょう。妄想は属人的であるし、物語そのものを論理的に整頓する能力を育むには適さない能力でもあります。でも「教育に適さない」のもあくまで読みとしての基礎を身につけていない場合での話で、その領域を越えて芸術や娯楽としての「読み」に至るためには妄想の翼を以て高く飛翔する必要があるのではないでしょうか。そういう読みを多様性として認めるような機会や場所がもっとあればいいのに、と思わざるを得ません。

かくして翼を携えた彼女は今日も読書を続けています。最近では詩にも手を延ばし始めたそうで、幾人かお気に入りの詩人を見つけてそれを読み込んでいると聞かされました。詩は妄想を使って解釈を深めて行くには少々難しいジャンルですが、彼女はそんな中でも自分の感性の歯車とうまく噛み合った作品を目聡く見つけ、目を輝かせて読みを深めていっているようです。

彼女は今後どういったジャンルに手を延ばし始めるでしょうか?国内外の詩?エッセイ?純文学?それとも読書そのものに飽きる? どのような結果になったとしても楽しみです。

いつ出会っても変わらないものと読書によって得られるもの話

日常生活の中で、ふと気づくといつ出会っても変わらないようなものごとに出会うことがしばしばあります。好きなアーティストの音楽だったり、精神的活動の傾向だったり、お気に入りの食べ物だったり・・・そういうものを失わなかったことは普通にありうることですし、たとえば地元の街並みのように、変わったところ・変わらなかったところ・変わらなければいけなかったところが混在して今の僕を作っているわけです。もちろん変わりたかったけど変われなかったところだってそう。街に出てイヤホンで昔の曲を聴いたりしていると特にこういうギャップを感じたりします。変わったものの象徴と、変わらないものの象徴が交差するからでしょうか。ひとつの曲としてまとまってしまったものはそれ以上変わることはありませんから、いかなる曲であれどもそういう時代の空気を纏って「しまう」わけです。

ただ、僕にとって面白いのは、読書では同じ現象が起こらないことです。コンテンツの特性としては音楽と同じで、成立した時代の空気を纏ってしまっているはずなんですけどね。これは、読書という体験が僕にとってリアルタイムの出来事であるのかもしれません。現在の感覚とテクストをぶつけ合って、そこから産み落とされるものを「感想」として抱いているのかも。だから今掴み取った感想が数年後(下手したら数ヶ月後)にも同じである保証はありません。そういう一過性・揮発性な感情こそが読書から得られるもののうちで最も大きなものだと思っています。要するに読書は僕にとって一期一会なのです。

今日読んだ本が来年どう見えるかは来年にならないとわからないような「変わりやすい」ことがとても面白いし、折りにつけ聴き直すようなお気に入りの音楽の「変わらない」こともまた面白いですよね。

頭の中にやってくるぴかぴかしたものを書けないという話

どうあがいてもまともな文章が書けないことがしばしばあります。

今こうして文章を書きながら「まともな文章が書けないんです」なんて言い出すのも大概妙な話なんですが、あるんです。頭の中を文章のようなものの要素のような物質が縦横無尽に駆け巡った挙句霧消していくかのような感覚です。実際にこうして形になる文章が氷のような固形なのだとしたら、そういう文章の要素のような物質は砂糖や塩みたいに粒のような・・・それとももっと抽象的な存在のような・・・物質ですらないような・・・。そんななにかがはっきりとした固形にならずに飛び散ってしまうのです。

頭の中にじぶんで自由に作り上げた網を広げて、それらをむりやりに集めてしまうこともできます。でもだいたいの場合、これはちゃんとした長い文章としてまとまることはありません。かけらのようなものが、かけらのまま一句一句の単語のまとまりとして僕の前にあらわれてきます。まとまってなんかいないわけです。でも、たまにそのままでひとつの輝きをもった強いことばになっているものがぴかぴかと降りてくることもあります。そういうものをメモ帳に書き留めて、いつか形に出来ないかとああでもないこうでもない考えたりすることが時々あります。大体上手くいかないんですけど。

そういうぴかぴかしたものって、つまりは他の文とつながっているとまともな形になってはくれないんです。それぞれがとくべつな光だから、他のぴかぴかしたものとつながっている必要がないんだと思います。いつかそういうものたちをもとに素晴らしい文章が書けたりしたらきっと楽しいんでしょうけどね。

そういうわけで、頭の中にやってきたそういうものたちは未だメモ帳の中にいます。世に出るかはわかりませんが、僕はそれを見て彼らが降りてきたその時にどういう自分だったのかを思い出すのです。

なんでブログに書くかって、そりゃブログじゃないと読まない人(自分含む)がいるからよ

表題で言いたいことを全部言い切ってしまったんで、ここから先は全部与太話です。

今の世界にこれだけ文字ベースのSNSが蔓延ってる中で、なんでブログみたいな旧弊なメディアを選んで記事を書いてるか?そりゃもちろん、僕にとってみればブログみたいな完全に自分の世界だけで完結するメディアじゃないと書けないようなことを抱えてるからブログなんて書いてるわけですよ。

いわゆるSNSでは自分発の文章を書いているつもりでもフォロワーやまだ見ぬユーザーの顔(アバターだけど)がチラチラ見えてるわけです。書く文章も畢竟その人ら向けになる。要するに完全に孤独なわけじゃないんです。SNSに書く文は。

読者が明確に見えている文章と言い換えられるかもしれません。もっと卑屈に言うと誰かに気に入られようとしている文になりがちなわけです。そうするとすべての人に届けばいいとは思っていないまでも、「自分が想定した読者たちに可能な限り届ききってくれればいいな」などといった色気が文章の中に忍び入って来るわけです。これがよくない。文章が浅くなります。濁流のごとく流れるタイムラインの中において一際異なる煌めきを出そうとします。1つの投稿の中に全てが収まるように小回りを聞かせようとし始めます。これらのいずれもが「文を書く」という仕事そのものにしてみると全くの無駄なわけです。行きすぎると文を書くのではなく釣り針を書いてしまいますからね。

ここまでずっと「他人の目がある中で文を書くこと」について書いていきましたが、こういう事とは別に、自分の中に「これだ」と強く思うような事柄があるならば、一度でいいのでそれを長文にしてみる努力をしてみた方が面白いというのもあります。長文として形にまとめようとすると色々な事が起こります。殆どのケースにおいて瞬間的に文章を書くSNSでは自らが持っているイメージに腰を据えて向き合う時間を自覚的に取ることは殆どないといってもよいと思います。僕はそうでした。ブログだとそうは行きません。ある程度まとまった形で書こうとするならば、そこに待っているのは自らが持っているイメージと繰り返し対峙する未来です。たとえ閃きのようなものと共に降り立ったイメージですら、確かな形として世に表すためには「それが何者なのか」を識るためにじっくりと分解しなければなりません。書くための起点としてはいずれのメディアにおいても「伝われ」という一念だったとしても、その先にあるものは全く異なります。そしてこの「じっくりと分解する」ことそのもの・・・つまり熟慮こそがブログを書くということで筆者が得られる大きなメリットにもなりうるわけです。

もちろん、熟慮がひらめきより優れているだのといった比較論的な内容に落とし込むつもりはありません。得たひらめきを分析して行く過程でその鮮烈さを全く失ってしまってただのつまらない文に成り下がってしまうことも珍しくはないでしょう。降りてきたイメージがどうなってしまうかは実際に練り込んでみないと分からないのです。だからこそ面くもあるのですが。

ひらめきを得たときに、それをそのまま手帳かメモアプリに書き留めておくようにするのも良いかも知れませんね。それが降りてきた時の鮮烈なイメージが焼き付きます。

「お久しぶりです」とかそういうことを言わない精神

ブログでの話です。

ずっと考えていたんですが、久々に記事を更新するからといってわざわざ仰々しく「お久しぶりです」だとか「更新がしばらくありませんで」みたいな話を記事の中に入れる必要があるのでしょうか?僕はいらないんじゃないかしらんと常々思ってます。今日はそういう話をします。

あの「更新がありませんでした」っていう話は誰に向かって話しているんでしょうか?ひょっとして読者の方々に向かってじゃなくて過去のブログを頑張るぞと息巻いて記事を更新していた自分に向かって言っているのではないかしらん、と僕は考えているわけです。

だいたい更新が途絶えたことなんて過去記事の更新日時を見ちゃえばすぐにわかりますし。

更新が途絶えがちになっちゃう理由については昔「自分自身の場合は」ということで考えてみましたが、そういう理由で更新が途絶えてしまったとしても「しばらくご無沙汰だった」なんてことはもうみんな解ってるわけです。恥じる必要すらない。もっと堂々と「おれは書くのを忘れてたわけではないぞ」と構えていればよいのです。

だからみんな唐突にブログを再開してほしい。僕も唐突にブログを書いたり書かなかったりするから。記事をコンスタントに書けないことなんて気にも止めずに自由にやろうぜ。

っていう更新をサボってたことに対する言い訳でした。次の記事もいつか書くからみんな気長に待っててね。

デジタル一眼レフデビュー

とうとうしました。一眼レフカメラデビュー。

帰宅前に何の気なしに寄った家電量販店で出会った一眼レフが試し撮り出来たので試してみていたんですが・・・まーーー簡単に撮れるんだこれが。そしてあの「カシャ」と軽いながらもしっかりと手に伝わるシャッターの感触!機械モノが好きな自分には堪りません。なぜ今まで一眼レフをスルーし続けて来たのか。

そういうわけで、前回ボーナスが出たときにとうとう買ってしまいました。やっぱりというか当然ながらというか、想像していたよりもずっと簡単にキレイな写真が撮れる!素晴らしい話です。とりあえず桜のシーズン前にカメラを買えたので、カメラの機能を試すついでに桜の写真を撮って来たり、無駄に近所を練り歩いてカメラを構えてみたりしていました。

いいものです。カメラを構えて何かに向けるという単なる動きそのものが既にいい。横方向に広かったはずの世界がカメラの操作盤を通して見る事によって縦方向に深くなっていく感覚がいい。撮影時の設定によって出来上がる写真が全く異なるのもいい。モノクロで撮るかカラーで撮るかで写るものがガラッと変わるのもいい。とにかく撮ること自体も撮ったものをゆっくり眺めることも楽しい。絵心がどうしても身に付かなかった僕がこういう形で視界を加工できるようになるとは思ってもいませんでした。

うまい写真の撮り方とかはどうでもいい。ただ単に目に見えていたものを恣意的に加工できるという単純なことがたまらなく嬉しいし楽しいのです。

しかしこれ、いいカメラが手に入ると外に出歩きたくなるものだとはよく聞かされて来ましたが、自分も御多分に洩れずそうなってしまいそうです。いいカメラがあるんだから国内の色々なところの写真を撮ってみたい。春夏秋冬それぞれに見所がある観光地があるのだし、いつか休みを使って国内を回ってみたいところです。海外はいろいろ手間だからいいや。

すげえなあ一眼レフ。出不精だった人間を強引に変えてしまいそうだぞ。

いいセリフが入らないといけない症候群

どうにも「いいことを言っておかないとまとまった気がしない」と感じる物事が多いです。本当はそんなものはさして必要が無いとは思っているんですが、1つのツイート・1つのブログ・1つの詩・1つの散文に至るまで、何か1つの形としてまとめる時についキメになるものが欲しくなってしまうんですね。

これは新年一発目の記事の内容とちょっと関連してますが、週に1回~3回ぐらいは記事を書きたいのにブログの記事を投稿する頻度が低くなりがちな理由って何があるんだろう?と今年自分の現状を振り返った時、たどり着いた答えの1つが今回の話のテーマです。つまり心の中で「『何かキメになる言葉が入っていないと記事として成立しない』と無意識に考えているから」と考えてしまっていたからなんです。

話のオチとして「良い表現」を求めてしまうんですよね。テーマと全体的な構成をガッチリ決めて書く文ではそういうキメ台詞をあまり必要としないんですが、着地点を特に決めずに書き始めた文に関してはもうひどいとまで言って良いぐらいに悩みます。オチがないと生きていけないぐらいの勢いで文章を書いてはこねくり回し、コピペして位置を入れ替え、接続詞や間投詞に至るまで気を使い、漢字をひらがなに変え、「やっぱり読みにくいから」と元に戻し。700字ぐらいで良い感じにまとまっていた文を1000字近くまで引き延ばして結果的に若干冗長になったりといったことは当たり前のように頻発します。

文中に某かの結論が出ていないと落ち着かないのかも知れません。だらだらと文を書いてゆるっとまとめる方法でも大丈夫な文を書き慣れていないということでもあると思います。特に専門的な事を書いてないブログの1記事なんてそんなガッチガチじゃなくたっていいんですよねえ。むしろ変に堅っ苦しくないほうが雑記の集団としてカッコいいかもなんて思ってみたりすらしてます。今年一年を使ってこの「いいセリフ症候群」を治していかなければなりませんね。


というわけで新たな目標ができました。もしかしたらこの「いいセリフ症候群」ってtwitterの影響だったりするのかしら。